
眠りは人間にとって欠かすことのできない行為である。
1日24時間のうち8時間眠るとすると、一生のうち3分の1は寝床ですごす計算になる。
しかし、ストレスの多い現代社会では、「なかなか寝つけない」「熟睡できない」「目覚めたときに爽快感がない」といった声も少なくない。
アイシン精機は1995年、体をやさしく支えてくれる体圧分散性に着目したジェルマットレスを発売し、好評を得ていた。
しかし、低反発ウレタンフォームを使って同様の性能を実現した「低反発マットレス」が急速に台頭しはじめたことで「ジェルマットレス」のシェアは一時、ピーク時に比べて約30%も減少していた。
「確かに当社のジェルマットレスは、スプリングベッドやウォーターベッドに代わる新しいカテゴリーを作った。
しかし、低反発マットレスの激しい追上げを受けている以上、何らかの対策が必要だ」
まず、営業が口火を切った。
「うちも低反発マットレス商品が必要ということか」
開発が答える。
「それでは市場で差別化ができない。かつてのジェルマットレスがそうだったように、新しいカテゴリーを打ち立てるようなマットレスがほしいんだ」――。
営業サイドが求めていたのは、従来とは概念を全く異にした、すなわち“オンリーワンのマットレス”だった。
体圧分散性とは
お尻などの重い部分は床にかかる圧力が高い。この圧力をいかに分散させるかが、寝心地の良さに関わってくる。


本当に快適な睡眠を追求した、これまでにない価値を持った新しいマットレスを――。
開発チームが考えに考え抜いた末、たどり着いたキーワードは「寝返り」。
それは、「快適な寝心地によって不要な寝返りを減らす一方で、必要な寝返りをしやすくするマットレス」だった。
そもそも寝返りとは、およそ90分間周期で訪れる深い眠りと浅い眠りの切れ目に一晩で数回行われ、規則的で安定した睡眠を得るためのスイッチのような働きを持っている。
これが「必要な寝返り」だ。
一方で、堅い床に寝たりして体の一部分に強い圧力がかかり、血流が阻害されて寝心地の悪さを感じると、それを解消するためにも人間は寝返りを行う。
こちらは余計に体力を消耗し、熟睡を妨げるため、本来はない方がいい「不要な寝返り」だ。
開発チームは理想の睡眠環境を実現するために、快適な寝心地を実現して不要な寝返りを減らし、かつ必要な寝返りをサポートする、この両方が重要だと考えたのである。
当社では、かつてジェルマットレスを開発した際、自社内の住生活健康学研究所と大学との共同で生体計測を行っていたことがあり、寝返り性を特長として打ち出した商品を開発できると考えていた。
「これなら低反発マットレスに勝てる」
こうして、開発は始まった。

快適睡眠と寝返りとの関係を追求。
開発チームがめざす「快適な寝心地」と「寝返りのしやすさ」の両立のうち、快適な寝心地についてはジェルマットレスで実現していた優れた体圧分散性のノウハウがあった。
問題は寝返りのしやすさである。
体圧分散性を重視した従来のジェルマットレスや競合の低反発マットレスのように体が深く沈み込むと、いざ寝返りをしようとした時は、畳の上のようにはいかない。
つまり、寝心地の良さと寝返りのしやすさは相反する機能なのである。
それでも、メンバー達の結論は、「ジェルマットレス並みの体圧分散性を持ち、しかも寝返りがしやすくなるような柔らかさを持ったクッション材、これを開発するしかない」というものだった。
「競合である低反発マットレスは、冬になると硬くなる欠点がある。
新しいマットレスでは1年を通して同じ柔らかさを維持して、差別化をはかりたい」
しかし、材料開発は難航した。
「希望通りの柔らかさを持っていたとしても、季節によって柔らかさが変わってはいけないんですよね。難しいですね」
というのが、材料技術部の回答だった。
さらにマットレスの場合、輸送時に意外な高温にさらされるケースがあるから耐熱性も不可欠である。
そして何より、軽くて、コスト競争カのあるものでなければならない。
そんな条件をクリアする材料など、おいそれと見つかるものではなかった。
マットレスの素材による動きの違い
畳のように硬いもの(左)はクッションが悪いが、動きやすい。
スポンジのように柔らかいもの(右)はクッションは良いが、動きにくい。
「これならいけるかもしれない」と思ったのは、エラストマーという素材。
エラストマーとはゴムのように柔らかく、熱を加えれば樹脂のように加工できるという特長を持つ材料だ。
しかし、スチレン系エラストマーを扱っている大手化学メーカーに相談してみたところ、メーカーの担当者から返ってきた言菓はそっけないものだった。
「ベッドで使用するくらいの量で、要求される耐熱性と柔らかさを持ったオリジナル材料の開発は不可能です。できるならこっちが教えて欲しいぐらいです」
八方ふさがりのなかで、―つだけ明るい兆しだったのは、自動車のゴムやウレタンの成形部品を生産している材料加工メーカー•T社が材料開発への協力を申し出てくれたことだった。
難度の高いメンバーの要求にただ1社、「やってみましょう」と反応してくれた会社だった。
しかし、開発をスタートしてl年以上たっても「これは」という具体的な成果があがらなかった。
2001年7月、ついに非情な通知が開発メンバーに下された。
「これ以上材料の開発に時間を費やすことはできない。開発テーマから外す」
中止通告だった。
エラストマーとは
常温付近でゴムのように弾性に富む高分子化合物の総称。